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第3部 写真技術の基礎

第1章 すばらしい視覚

 人間の視覚の適用範囲は極めて広く、真夏の太陽の下でも星明かりの下でも物を認識することができます。また、人間は真っ赤な夕焼けの中でも正しく色を認識することが出来たりします。さらに、視覚が不明瞭な状態でも、知識や音声情報、さらには嗅覚などの補助情報まで活用して物体の認識を試み、パターン判定に成功すれば、そこから物体Aの知識をもとに周辺状況の推論までをも可能にしてしまいます。
 このように人間は非常に高度に統合された視覚情報システムを持っているのですが、しかし、同時に人間は、ときにあまりに物が見えていないことに愕然とさせられるときがあります。
 自分が見たもの、想像したものを他人に伝えるのが映画や写真などの映像芸術だとするならば、自分の視覚をカメラに代弁させるためにはこのあたりについての一通りの理解が必要だと思われるので、私なりの仮説で人間のものの見方を説明してみたいと思います。

意外に見えていない視覚

 実は、眼球の意識上での視覚範囲は極めて狭く、注目したところ以外の認識力は驚くほど低いものです。理論上は180度近い視野を持っているにもかかわらず、主要な物象については、意識的に捉えないことには認識できません。
 これは人間の視覚処理能力、とくに言語を使用した解釈システムが脳に高負荷をかけるために、生存に直接影響しそうにない些末な情報を切り捨てているからだと、人工知能に関する書籍に書いてありました。催眠や薬物投与などによる特別な精神状態だと、この制限がなくなり異常に視聴覚が鋭敏になるとも聞きます。
 そんなわけで、普段の知覚システムには注目している部位以外はぼんやりとしか見えておらず、何かそこに動きでも生じない限りほとんどの情報は無視されています。しかし、ほとんど何も見えていないにもかかわらず、人間は目隠しのような恐怖感を覚えることなく日常を過ごしています。

 人間の視覚認識の基本として、非注目状態ではかなりいい加減な簡略情報だけを取得していて、本当に必要な情報は必要になってから取り込んでいることに気を付ける必要があります。人間の視覚システムは、「情報が欲しい」と意識した瞬間に情報を供給できる大変に高度なものです。視覚システムは首や眼球の運動システムまでも制御し、「よく見えない」というストレスをほとんど感じさせることがありません。それがあまりによく出来すぎているために、人は「視界内のものは常時全部見えている」と錯覚してしまうのです。

余談:視覚処理を簡略化するために、視覚システムは言語による記号化処理を行います。
 視覚システムは画面要素のディテールを省いて「人」「車」「建物」「山」とかいった言語シンボルに置き換え、実際にその物象がどういう特性を持つのかはあまり考えずに、ステレオタイプな知識を当てはめることにより行動や脅威を予測します。逆に暗がりで人影のような岩石を見かけて目を凝らすようなときには、正体を見極めて記号化が済むまでかなりの緊張を感じるはずです。
 形状だけでなく、色彩についても朱色やマゼンタをまとめて「赤」と称してしまったり、緑の信号を「青」と称したりして、細かい表現を放棄してしまいます。
 こうやって視覚−言語システムは脳の処理能力を些末な観察から解放し、もっと生存に注意を振り向けるようにと働くのです。
 幼児のらくがきなどを見ると、記号化されたあとの認識状態がいかなるものかを目の当たりにすることができます。こうして考えると、子供のらくがきもあまりヘタクソと笑うわけにはいかないようです。

 視覚システムは、人間の「見えない」不満と不安を取り除く事を第一義に働きます。極端な話、実は人間の視覚は常に「何でも見えてるよ」といって知覚を騙しており、それを補うためにものを見ているとさえ言えるのかもしれません。
 一つ、写真で例を挙げてみましょう。ある美女をモデルに写真を撮ってみたとします。このとき、トレーニングされた人間でなければ、普通はこの美女以外に何も見えなくなるはずです。でも、周囲が見えていないという事を脳ミソは少しも警告してくれません。そしてニッコリ笑ってもらって写真を撮って、帰って現像してみると大ショックを受ける事になります。
 撮影時にはまったく気にならなかった背景がバッチリ写っていて、しかも無粋な野郎だったりしたら、これでは百年の恋も冷めてしまいます。これも、「見えている」という疑似信号に騙されてしまったがゆえに発生する悲劇と言えるでしょうか。
この時、カメラマンは美女に注目するあまり背後を全く気にしていません。しかし視覚システムは「すべて見えており、異常はない」という偽信号を出して知覚システムを安心させています。意識して探せば背後に邪魔な被写体がいるのですが、生存本能はあまり芸術には興味がないので無視してしまうのです。

 そんなわけで、上手に写真を撮れるようになるためには、「大丈夫だよ」と言われている領域にまで意識的に視線を走らせて確認するという、視覚システムにとっては不自然なトレーニングが要求されるのです。「観察」というのも、結構面倒な作業なのですね・・・。

自動コントラストの視覚

 視覚の明度情報についても見てみましょう。
 人間の視覚で同時に捉えられる明るさは、せいぜい白から黒までの限られた範囲に過ぎません。それ以上に明るいところや影になっているところは、瞳孔を調節したり視神経を調節したりして個別に認識し、あとで両者の情報をうまくごまかして結合したりします。

 例えば室内でものを見るとき、全体を固定設定で認識しなければならないカメラでは、窓の中と外を同時に写す事は出来ません。あまりに明るさが違うため、どちらかを取ればどちらかが真っ白か真っ黒になってしまうからです。しかし、人間なら、部分別に明るさの認識を使い分けて、あとから矛盾のないように結合してしまうことができます。
人間にはこのように見えている光景が、実はカメラでは正しく再現できません。
向こうの山と手前の人物は明度差がありすぎて、普通に撮ってはどちらかが消えてしまうのです。こんな場合、視覚は構成要素毎に明るさを再調整して統一した画面を作り出します。写真の場合は暗室で写真を加工して解決しなければなりません。

自動補正される色彩

 人間の視覚は、光源が変化しても自動的にそれを補正して、いつも通りに色彩を認識する事が出来ます。そして、あまりに自然に補正が働くため、人間はその補正が行われていること自体を認識できません。そのため、例えば電球の下でも人間はいつもと同じように絵を鑑賞したりできますが、カメラに聞いてみると、そこは電球色で真っ赤に染まった世界だという答えを返されて驚くことになるのです。
 場合によっては、窓の外が違う光源であったとしても、視覚システムはそこだけを切り抜いて色補正を施してしまいます。日常生活にはとても都合のいいものなのですが、これもまた、写真記録を取る際には邪魔になってしまいます。
 そして厄介なことに、人間は視覚の自動補正を自分で切ることが出来ません。(!!) そのため、カメラで色を正確に再現するためには、光源の種類を見分けて、推論から補正値を決めるしかないのです。

エフェクト付きの眼球

 夜景を見たとき、その美しい輝きに人は思わず感動してしまいます。が、いざ写真に記録してみると、思ったより貧相でがっかりすることがよくあります。何が異なるのかをよく比べてみると、写真の夜景には、自分が見たときのような美しい光のにじみが見られない点がその最大の要因になっていることがわかると思います。
 ここでカメラと眼球のどちらが悪いのかを考えてみると、当然、不正確なのは眼球の方だということになります。カメラがいちいちそんなにじみを発生させていたら記録写真まで不正確になってしまい、これではたまりません。

とても都合のいい視覚

 そういうわけで、人間の視覚には「自動感動回路」が付いているのがおわかりになったでしょうか。これは、思い出を残す上では非常に都合のいいものなのですが、その感動を他人に伝えたいと思ったとき、これは大変こまったことになります。
 自分の印象をテレパシーで伝えられるならいいのですが、普通の人間ではそうはいきませんので、イメージはカメラに代弁させるしかありません。ところが、カメラは人間の感動などお構いなしに、とにかく正確に映像を記録してしまいます。そこで人間としては、カメラにフィルターを付けたり、照明をいじったり、プリント段階で加工したり、時には合成までして人為的にイメージを歪ませる必要が出てくるのです。
 そのためには、自分の目がどのようなウソをついているのかを自覚し、そして心の眼とガラスの眼にどれほどの誤差があるかを見極めなければなりません。
 「自然さ」は綿密な「演出」なしに表現され得ないというのも、変な話ではありますが・・・。


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