かなり昔より、アニメーションにコンピュータを応用した例は存在しています。1980年代中期の千葉工大作品「THE CARDS」にはCGによる照準表示やコンソール表示が効果的に投入されており、電通大漫画アニメーション研の3DCG作品群もかなりのクオリティを誇っています。「THE CARDS」ではNEC 9801を、電通作品ではシャープX68000を使っていたという話です。
このX68000は1987年前後に登場しましたが、かろうじて手の届く価格(定価\369,000)で強力なグラフィックス機能を実現したことでCG作家に絶大な支持を受け、日本のコンピュータ界に革命的な衝撃をもたらしました。ちなみに1991年のApple社のカタログによると、黒白モニターのClassic2モデル(68030-16M/40M)で40万円、Quadra700(68040/25M/80M)で140万円だそうです。当時のMacでグラフィックスを狙えば当然100万円の世界だったわけですが、それでも68も決して安くはなかったようです。
1989年ごろに登場した富士通のFM-TOWNSはAVマシンとして高いポテンシャルを持っていたのですが、マーケティングのまずさ故かいまいち市民権を得られず、だいぶアニメーション製作環境が普及したにもかかわらず、Windows95の登場と共に姿を消してしまいました。私はCSKによるセガ「アフターバーナー」の移植失敗作が敗因ではないかと思っているのですが。
さて、コンピュータをアニメーションに応用するところまではいいのですが、問題は再生手段です。当時のコンピュータにリアルタイムでCGを動かす能力はなく、そのためビデオテープや8ミリ映画カメラに1コマずつ録画させ、これを再生してはじめてCGが動くという世界だったのです。
そう、当時のCGはなんと8ミリ映画フィルムに記録されていました。電通大の例でも、暗室にX68000のモニターとZC-1000を据え付け、シャッターの手回しクランクにモーターを取り付けるという方法でフィルムレコーディングを実現していたといいます。
次第にコンピュータの能力が向上するにつれ、コンピュータ上での動画再生が現実的になり、ゲームでも絵が動く例が増えてくるようになりました。98にはフリーソフトで「Animax」「MASL」という動画再生環境が登場し、X68000でも「PANIC」等の動画再生環境が隆盛を誇ります。しかし、この時代のレベルでは、まだ「アニメがパソコンで動く」というのは曲芸の領域に過ぎず、作品として使えるようなシステマティックな製作環境ではありませんでした。
当時のパソコンは16色表示が通常であり、フルカラーをサポートするX68000,FM-TOWNSでも、イメージスキャナから取り込んだ自然画像をフルに動かすような能力はありませんでした。よって、パソコンで動作する動画はパソコンで生成されている必要がある、つまり「パソコンで色塗りできる」というよりも「パソコンで塗った絵でないと動かない」という世界だったのです。
まだ、コンピュータがZC-1000の完全な代替品として活躍する可能性があるなんて、これっぽちも考えられていませんでした。
私が大学に入った1993年当時、すでに早大アニメ研ではNEC PC9801とフリーソフト「Animax」(Batcha氏作)を核にした線画テスト用の統合環境が存在していました。このシステムでは16色のCGを全画面で秒30枚以上のスピードで動かすことが出来たのですが、残念ながら16色では、セル調の人物までは描けても、背景がゲームみたいになってしまうので、いかにもCGですという感じの作品しか作れませんでした。
当時のグラフィックスを取り巻く環境は混沌としていて、私達もWindowsアクセラレータのDOS駆動だとかフレームバッファだとか、あれこれコンピュータアニメの可能性を考えていたものですが・・・
Animax用タイムシートプログラム「AMXV」(小野木氏作) |
一方、NECパソコンのアーキテクチャは9801VM11以降、9801FAに至るまで5年以上にわたり根本的な変化がなく、特にRA-DAの進化の停滞は、9801シリーズの終焉を予感させていした。この予感通り、NECは次世代型のPC-9821シリーズを発表し、Windows3.1を核とした新しいNECパソコンのラインナップが生まれます。
はじめて「Windowsアクセラレータ」というボードがうちにやってきました。これでうちの98もフルカラーが使えるようになったのですが、フルカラーを使うためには基本的にMicrosoft Windows3.1というシステムを動かさねばならないという大きな足かせが付いていました。このシステムは、1.6Mバイトが標準だったパソコン界にいきなり5Mバイトを超えるメモリを要求する困った代物で、ワープロひとつ動かすにも従来の数倍のパワーを要求するという大変効率の悪いシステムでした。特に、グラフィックス周りの性能は悲惨で、フルカラー(24bit/1677万色)モードではWindows自身がまともに画面を表示できなくなるという欠陥商品だったのです。
そういうわけで、MS-DOSを日常的に使っていた私達には、Windowsの導入は「退行」にしか見えませんでした。ワープロとしての性能はなかなかでしたが・・・。
「マルチメディア」を売り文句にしようとしたWindowsには、拡張モジュールとして「Video for Windows」というシステムが無料配布されていましたが、当時の性能では記念切手サイズの画像がかろうじて動くという程度の貧相極まりないもので、これがアニメーションの将来を担えるものだとはとても思えませんでした。
まだ、この時代は、もしコンピュータで色塗りができたとしても、再生は1コマずつビデオデッキに撮るかフィルムレコーディングしかない、という考えの方が当たり前だったのです。
宣伝と噂ばかり先行するMicrosoft Windows4.0はWindows95に改称され、しかも発売は遅れに遅れていました。そんな市場動向は放っておいて、私の当面の興味はWindowsでのフルカラーグラフィックスに向いていました。しかし、Windowsの不安定さと、市販グラフィックソフトの完成度のあまりの低さのため、Windowsにおける本格的グラフィックスの実現は、Windows95の登場まで待たねばなりませんでした。いくらPentiumプロセッサーが登場しても、ソフトが動かなければ話にならないのです。まったく。
当時の市場のトレンドは「マルチメディアCD-ROM」と「動画再生」で、ムービーの見られるMacintoshがヒットしていました。一時期など、Macintoshを買うと「HなCDゲーム目当てか」と冷やかされる人もいたそうです。
Windows系統ではマイクロソフトの提唱するDCI、WINGなどの拡張仕様に対応するハードウェアが次々と登場しましたが、結局、画面上でフルサイズの動画を動作させるという要求は、97年現在に至ってもMotion-JPEGボードなしでは実現されていません。
95年末に登場したWindows95は、周辺機器メーカー側の対応の遅れから、出足はあまり芳しいものではありませんでした。その構造上の欠陥などから、IBM OS/2に追い抜かれることを危惧する(期待する)声も聞かれたものです。私もAT互換機を1台こしらえてみたのですが、ソフトが揃ってドライバが安定するまで、結局半年近くもかかったのでした。それでも、マイクロソフト社のハードウェアとのセット売り戦略により、確実にWindows95のシェアは伸びていきました1。
さて、この年は運命の年となりました。ひとつの転機は、6月に発生したZC-1000の故障です。まだ修理できると思っていたので楽観していたのですが、それでも、このことは画像記録装置の代替品を探し始めるきっかけになりました。
もうひとつの転機は、新しく6月にやってきたカノープス社の「Power Window
T64V 4MC」という画像表示ボードでした。このボードには簡易型のビデオ取り込み機能が付いていて、ビデオカメラをつなぐと簡単なコマ撮りもできるようになっていたのです。「これは使える!」と直感し、暇の出来た8月から編集や録画再生についてあれこれ実験が始まりました。
確かに、これならば従来のように「背景との重ねあわせはどうしたらいいんだろう」とかいう悩みとは無縁です。従来通り、背景にセルを載せてしまえばいいのですから。コンピュータを色塗りに使わないで、単なるビデオデッキ代わりにしてしまうというこのアイデアは、従来のアイデアとは別次元に存在するものでしたが、この方式ならば作画環境側に変更を要求することもなく、8ミリ用に揃えられた撮影台システムとの親和性も極めて高そうに思われ、大変期待が持てました。
そして、再生のためにはどうしても専用のMotion-JPEG再生ボードが必要だという結論に達し、10月、同じくカノープス社の「PowerCapturePCI」というボードを導入することとなったのでした。
10月の段階で、当面の課題は「東京の空の下」をどうするかというところにありました。
すでにZC-1000は修理不能との診断を受け退役が決定していましたが、ビデオで撮影するには「東京」の油性マーカーと背景美術のテイストは捨て難く、場合によってはZC-1000をもう1台購入するという強硬意見さえ存在する状態でした。そこで、コンピュータシステムの目標水準は、「これで『東京』が撮れるのか?」という関係者を納得させるというところに設定され、「東京」をターゲットにした編集や録画の実験が繰り返されました。
11月、早稲田祭での撮影や編集のデモンストレーションの結果、これこそは8ミリの代替となるべき次世代の撮影システムであるとの評価を受け、「東京」と新撮影システムの組み合わせにゴーサインが出たのです。
12月、アニメーション研究会連合の32回上映会で上映された「東京の空の下」は、内容の評価も上々でしたが、技術面でのアプローチにおいても注目を集め、8ミリからの転換のひとつのモデルケースとなりました。その後、機材面やソフトウェアの細かい見直しを経て現在に至ります。Motion-JPEGカードが中核にあれば、今後のコンピュータ彩色や3Dアニメーションへの展開も容易であり、将来性を期待できるシステムになったのではないでしょうか。
この年は、撮影に関する問題が一段落付いたので、機材の安定性の確保を重視すると共に、コンピュータでの着色及び背景との組み合わせの実験に集中することになりました。
「三月の兎」に使用したポータブル撮影機。 これでZCより尻が重いというコンピュータ撮影の欠点を克服したことになるのでしょうか? リアルタイムの録画は無理ですが、コマ撮りなら実用になります。 |
98年は、デジタルビデオことminiDVが普及し、コンピュータとDVとの連結が可能になったモデルが登場してきました。近いうちに、DVはビデオキャプチャカードに取って代わるのでしょう。またMPEG2技術とDVDも軌道に乗り始めます。
身近なところでは製作プラットフォームがWindows95からWindowsNTに完全移行し、作品規模が10分を超えられるようになったほか、ハードディスクが大容量・高速・低価格化して、パソコンによるビデオ編集が中級機種にも可能になってきました。メモリも128MBが2万円を切るようになり、もう印刷品質の画像編集も個人に手が届く時代になったことは特筆に価します。またMediaStudio5.02やぜんまいはうす「アニメスタジオ2」が登場し、ソフト面でも映像編集はパーソナルレベルにやって来たといえるでしょう。
その他トピックスとしては、サウンドカードがついに全面的にPCIに移行し、コンピュータのハードウェアデザインがようやく90年代にふさわしいものになってきたことなどが挙げられるでしょうか。
他に98年のトピックスとしてはWindows98の登場がありますが、このシステムは内部名称「Windows4.1」が示すようにWindows95のマイナーチェンジに過ぎず、インターネット市場争奪戦の関係で無用に高負荷なインターネットブラウザ「InternetExplorer4」が強制装備されるなど、かなり実用性の低いシステムに仕上がってしまいました。98年のマイクロソフト製品の品質の低下は目を覆うばかりで、オフィス現場ではMS製品では仕事にならない状況が生まれつつあります。
99年にはきっとMS離れのムーブメントが加速すると思うのですが、ビデオキャプチャなどの特殊分野はメーカーのデバイスドライバ開発に完全に依存しているので、世間のようなlinux転換などは簡単には行えません。
我々にとって最も大事なのは、明日のマシンよりも、いまここでマシンが動いてアニメが生成できるという事実である・・・ということで、クラシックな装備で固める保守的退行が99年には進むと思うのですが、どうでしょうか。